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ALWAYS 三丁目の夕陽から学ぶ教育の理想の形

ちょっと感動しちゃったんだけど、こんな内容:
マンガ家になりたい人が必死に絵を描いている。父親はそのことに大反対で、マジ切れ。それでも押し切ったマンガ家志望の息子は父親と決別して一人書き続ける決意をする。父親が亡くなりそうになっても相変わらず厳しく接する父親にいらだちを隠せないマンガ家。そして父親が亡くなられた後に息子のマンガを細かく読んで近所に自慢してた父親であったことを知る。 マンガ家の息子もそのマンガを書く姿勢に惚れてマンガ家を志望する。 息子の姿勢を見たそのマンガ家は父親と同じように厳しく接し見送った。マンガ家という厳しい道を選ぶなら、そのくらいの覚悟がないとダメだという考えの様子。そういった指摘を受けて、「悔しい」と思ったからこそマンガ家を続けられたという主人公の言葉を覚えている。
さて、この教育方法がいいのかというのが今回真剣に考えたところ。
自分で出た結論としては「厳しく接するのはハイリスクだからやるべきではない」ということ。以下理由: 
1、今後のコミュニケーションが無くなる。厳しく接されると、接された側はその人に対して話しかけたり近寄ったりはしたくなくなる。その時点でチームワークは乱れ、ピリピリとした雰囲気となってしまう。
2、その人がよほど適切なことを言ったり、すごい人だったりじゃないと、反感を買われるだけ。そして適切なことを言ったとしてもそれは厳しくされた側はひどく落ち込むだけ。落ち込まれた場合はもうどうしようもない。自分からの行動は絶対になくなる。 逆に反感を買われた場合はその人の成長につながる可能性があるからまだマシ。

怒られることで一番成長できる人間は、「その時に反感を買えるか」ということだと思う。絶対見返してやるって思いは人を強くする。 まぁ「自分が悪かったなぁ、改善しよう」みたいな考えが一番いいと思うかもしんないけど、そうするとどんどんとあれはやっちゃダメ、これもダメ、どうしよう。みたいな人間になる。 主体性を持った人間にはなれないね。

記憶の中では怒ってくれた人って印象に深く残るよね。 それが有難いと感じる人は多いだろうけど、それで本当に自分は成長できてた? ただ怒られないようにがんばろうとかしか思ってないなら、それは何の主体性もなくただやらされてただけだよ。 自分も今考えるとやらされてただけであって、成長ではなかったと思うんだ。


教育において、もっとも大事なことは何か? それは教えられる側をやる気にさせることであると考えている。 では教えられる側がやる気を出すにはどうしたらいいか? 教える側がやる気になればいいのである。その思いはずっと変わっていない。 そのやる気が怒りというものに変えて教えてしまうと、その人が落ち込む可能性がある。それはいけない。教えられてる人のやる気がなくなるから。。 そう考えると怒られることで反感を買える人ならいいんだけど、そうじゃない場合を考えるとやっぱり怒って教育することはハイリスクだと思うんだよね。

最適な教育。 それっていいコミュニケーションを保ちつつ、互いのやる気を尊重し合えるような師弟関係だと再度認識した今日この頃。