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ストイックな精神

ここは元旦明けの東京・人形町。町は新年のセールでたくさんの人で溢れかえっている。私はカフェ店内の陽の当たる席で、残り少ない新年の休みを過ごしている。

辺りを見渡すと、少なくとも 3割以上の人が黙々と作業をしていた。ある人はパソコンを開いてじっと見つめていたり、ある人は本を並べて一生懸命にペンを進めている。わざわざ一杯 300 円もするコーヒーを買い、雑音の聞こえるスペースで作業をしていた。そんな一見すると非効率なことを求めてやってくる人々の中で、私もその一員としてまさに今、筆を進めている。

カフェで作業する人は、単に家でやっていると寂しいからという単純な理由ではなさそうだ。家でコーヒーを作る方が安くて美味しいものができあがるし、家の方が落ち着いて作業ができるに決まっている。一見すると矛盾な行為を、人は「あえて」行っているのではないか。合理的に考えれば非効率なように見えることを喜んでやっているように見える。

あえてカフェに来るということはストイックな精神の表れだ。目の前の快楽を捨て、しきりに自らの理想を追い求める姿がそこにある。一見非効率に見えるこの作業が、いつかは実を結ぶと信じてやっている。カフェで作業する人たちに対して私はそんな仮説を立てた。

私もあえてカフェにやってきているストイックな人間の一人である。振り返ると、私はこのストイックな行動にすっかりと染まってしまった。企業に勤めていた3年前、私はとある人と出会った。彼はタイピングをするのに、指に5kgもする"おもり"をつけてタイプしていた。タイピングし辛くなって作業に支障が出るにもかかわらず、彼はあえてその行為を行っていた。端から見れば「バカでしょ」で済まされる話なのだが、当時の私は彼のストイックな精神にすっかりと心を奪われてしまったのを覚えている。私は彼から自分をあえて苦しめる筋トレと、その苦しみの先に発生するゴールデンタイムの存在を知った。彼と一緒に真冬の公園で遊ぶ子供達の傍らで鉄棒で筋トレを一緒にしたりもしたし、仕事の作業を空気椅子で行ったりもした。そんな体験を通して私はすっかりストイックな精神に心を奪われてしまったのであった。

私は今でもあえて熱海へ一人で出向き孤独と向き合いながら仕事を行っている。気分転換するときは、熱海のビーチで愛し合うカップルを横目に、私はビーチを駆け抜けている。そして今まさにあえてカフェに一人で来ることで、筆を進めるパフォーマンスを導き出している。

さて、冷静になって現代の状況を俯瞰してみよう。"モノ"が揃い過ぎて思ったことが何でもできるようになった今、「お金さえあれば何でもできる」という考え方が人々の中で染み付いてしまったように見える。お金に執着が生まれるようになると、目の前のお金だけを求めて動くマネーモンスターに変貌する。そんな価値観に染まった人たちは、どこかがっついていて落ち着きがない。常に誰かと自分を比較している。ちょっとしたお金儲けの話をしだすと目を輝かせて飛びついてくる。そんな人たちを目にすることがある。

私は思う。そんなに人やお金にこだわって何でもできるようになった先に、あなたの実現したい未来はあるのか、と。何かがあったとして、その状態があなたにとって本当の幸せなのだろか。人と比較して優越感に浸るような価値観の人生は、いつでも妬みが原動力になっている。そして、その妬みの連鎖が、終わりのない欲望の渦に飲み込まれていく。

なんでも揃った現代において必要なのは、他人と比較せず、自分を磨き続けるストイックな精神そのものだ。目の前の欲望に左右されず、自分の芯を貫き、磨き続ける。合理的な行動に見えることを "あえて" 嫌い、他から見れば非効率に見えることを"あえて"行うのである。そんな心が、私たちを更なる高みへ連れて行ってくれる。

仏教的な話で言えば、目の前の欲望は"煩悩"そのものだ。この時代には煩悩が溢れかえっている。そしてその煩悩にいとも簡単に染められてしまう。だからこそ私たちはあらゆる煩悩を自らの意思で(あえて)取り払わなければならない。取り払った先にのみ、磨き上がった"芯"が生まれるのだ。それが"悟り"の境地である。この考えは、どんなに時代が進歩したとしても変わらない真理だ。

カフェで作業している人たちは、"あえて"カフェにやってきて自らを奮い立たせている。その光景はまさにストイックの精神を体現した戦士たちである。そんなことを考えたら、私はカフェで作業する人たちの夢と希望あふれる行動について、仲間として賞賛したくなるのである。周りの騒音の中一心不乱に作業している人たちを見ると、日本もまだ捨てたもんじゃあないな、と感じる。

暖かい日差しは夕暮れになり入らなくなってしまった。私は席を立ち、肌寒い外へと繰り出した。